『シン・ゴジラ』感想 どうか僕も踏んでおくれ
□『シン・ゴジラ』見てきた。初日に。
ドカーンとうちのめされてるうちにどこもかしこも批評・感想が充実していくので、もう何いったって次回も既出既出ぅっ!て気分だったのが、どうもモヤモヤ煮え切らなく我慢できなくなっちゃいました。そういうパワーがある。おそらく思ったことはどっかの誰かが書いているとしても。
□きっと田舎コンプレックスだから
とりあえずただただ特筆したいのは、現状3回見に行ってまだフツフツと見に行きたい気分がおさまらないこと。
これがなんでかって、あれが現実対虚構と書いてニッポン対ゴジラって読むからですね。はい。
わけわからんね。
でも見てて僕がたまらないのは、多くの人が思ってるとおり、日本っていっても東京ってことなんですよね。あれトーキョー対ゴジラだよね。
これ、本編でもいってたけど日本と東京は政治的にも経済的にもほとんどイコールだし、こんな東京SOSな事態は日本の国家的沈没危機なわけだから間違いなく日本対ゴジラなわけだね。
これが心底胸に来まして。
地方無視だ!なんて批判でもなんでもなく、すごいこの部分が好きで。
何を隠そう自分は首都圏に住んでない地方民なんで、地方があんな扱いなのも怒りのひとつもなく心底納得できる。
そんな僕が、ゴジラみてずっと感じてたのが、あの輪の中にいないこと。
ゴジラという生きた災害によって東京がひどいことなってて、政府も官僚も企業から在来線くんまで一丸となって立ち向かったその力強さに手に汗握って、それの真実は知らんがひたむきな官僚や現場の人らを応援して、それでも焼け野原になる首都をみて絶望したわけだ。
だけど、きっとここにいない人、たとえばこの世界の糞ド田舎の小学生なんかにはこれ全部まるで他人事みたいに感じるんだよなあ、って思って見ていた僕も今この感覚は覚えがあるっていうか、それはいつか大震災の津波のニュースを横目に、アニメを炬燵で見ていた時の感覚がデジャビュだった。
あの時の、輪の中にいない感覚。
目の前の映像は途方もなくリアルなのに、どうしようもなく僕の日常が地続きで罪悪感さえ感じたやつ。
これが、燃え盛る東京が画面のなかにあって、自分は安全なところにいるってシン・ゴジラを見てる状況と重なった。合理的なものの前でほとんど描かれない民衆たちとその身近な被害が見えないおかげで、なおさらそこに僕の居場所が見つからない。そりゃ、もともと東京にいないのもあるけど。
その時心底、これだよなあ、って思って。
理不尽の塊みたいな怪獣が都市をぶっ壊す人々の危機に対し必死になんとかしようとするヒーロー達と、夕方のこのテレビの前で飯を食ってる僕。怪獣に夢中で、地球を守る隊員たちにあこがれて、短冊にウルトラマンになりたいって書いて、破壊されるマンションの中身に気をやる暇はなかった僕ら。
ああ、シン・ゴジラこれ……怪獣特撮だなあ……怪獣特撮だよ……。
輪のなかにいない罪悪感と怪獣みてるお茶の間ビジョンが脳内でわけわかんなくなっちゃってるよ。
ってしみじみ胸が詰まりましたね。
結論いうと、何回見てもモヤモヤが晴れなくて、文章化もうまくできないままならねえ気分なんだ。
もともと怪獣のどこが大好きかって、あいつらがモコモコやってる見えない足元で人の生活がぶち壊れてるんだろうなあ、って想像できる見えないところの絶望感が個人的に好きなとこのひとつ。その点の欲をたいへん解消してくれる!
それ以前にシン・ゴジラはもうはっきり目の前の絶望に打ち震えたけれどね。
震災後のあの絶望感をリピートしながらも、どう転んだって怪獣(褒め言葉)! あのリアルっぽいのに本当は遠い虚構の恐怖!
まあ、ラストのその後とか(あれ漫画ナウシカ的なこと考えられるよね)、考察とか小ネタとか詳しい人が根掘り葉掘りやってくれるので僕ごとき出る幕はなく、かんぜんにつれつれ書きなぐった私的な感想に落ち着きましたけど。寝ころびながら書いてるし。
とにかくまた見たいなあ、って気分がずっとあります。輪の中へはいる入り口を探しているんですよね。
だからきっと、あの怪獣の足元のどこかに自分に地続きのものを探そうと4回目5回目と見るかもしれない。
それでやっぱり僕は平和なスクリーンの前に座っていて、大怪獣ゴジラの破壊を見ているしかないんでしょう。
リアルタイム恋愛シミュレーションゲーム。映画『蜜のあわれ』感想
二階堂ふみがめっぽうエッチという話を目ざとくキャッチしたので、映画「蜜のあわれ」をこのまえ劇場へ見に行きました。
【映画パンフレット】 蜜のあわれ 監督 石井岳龍 キャスト 二階堂ふみ, 大杉漣, 真木よう子, 高良健吾, 永瀬正敏, 韓英恵, 上田耕一, 渋川清彦,
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そのツイートに載っていた金魚少女のイラストのたいそうひらひらかわいらしい人外感に惹かれ、おじさまと少女という取り合わせへ強烈にエロの匂いを嗅ぎ付けたところで見に行く決心を固めた私の身体は気付いたら劇場に座っていたのです。
と、そんな思春期の中学生男子がピンク映画行くみたいなメンタルで見に行ったものだから、もちろん始まってすぐにスクリーンへ丸写しになった二階堂ふみの丸くつるつるしたお尻に目を奪われ「評判通りエッチ!」とにっこり満足し、「頻発する効果音が安っぽいな~」とか何様な上から目線の態度で鑑賞していたんですけど、
こいつ、これからボロボロに泣きますからね。
スタッフロール後、赤くなった目が恥ずかしいから下向いて逃げるように劇場を飛び出しますからね。
■頭に少女を飼っている
いいですか。ネタバレは辞さないぞ。
私原作はどうか知らないんです。ただこの映画では、室生犀星自身であろう老小説家である「おじさま」が、連載している劇中作こそ「蜜のあわれ」であることが見ているとわかります。
だからこれ、入れ子構造のメタフィクションになってて、虚構と現実がオーバーラップしてる不思議な作品なんですよ。
メッタメタな作品好きなので、ただの古典の焼き回しロマンポルノかと思って油断してた僕はここで「お?」ってなりまして、安っぽい序盤の効果音も「これワザと多用してる?」って疑りだします。
完全にエロ中学生目線じゃなくなってくる。
二階堂ふみの演じる金魚少女の「赤井赤子」は、おじさまに飼われている金魚です。はじめはただ無邪気な少女。けれど、おじさまと恋人になることを望み、おじさまと肉体関係にある女性に嫉妬したりと、「女」になってきます。
でも、赤子はおじさまの小説の登場人物なんです。
赤子自身を写した鏡は割れて複数の女性の顔が現れるシーンの通り、そのモデルは関係相手の女性も含めた、おじさまの知っている様々な女性の影の合成です。
いっちゃえば、赤子は小説家であるおじさまの妄想なんです。
これ、金魚の化身とか妖怪とかそんな感じかと見るまで思ってたので、正体が比較的早く明かされてびっくりしました。
そのくせおじさまの頭の中の妄想のはずが、現実に不自然なく存在していて、非常に幻想的。
どこから妄想で、どこから現実か。
この切り離せない感じ。
ここらへんの展開がたいへん面白くて。
おじさまは少女が自分の妄想で小説で、自分が描写し続けていないと消えてしまう存在であることを知っているのに、少女はそれをわかっていない。
赤子はおじさまを愛するキャラクター性が確立していって、無邪気な少女のままでいようとしない。おじさまに束縛されることを嫌がり、自分なりにおじさまを愛そうとする。
それが例えば、劇中では他の金魚の子をはらんだ腹をおじさまに撫でてもらうことで互いの子として残そうと考えることで、おじさまの愛情を独り占めして、その証を作りたい赤子に対して、おじさまはずっとただ純粋無垢な愛玩少女のままでいてほしいんです。
赤子のキャラクターというものが、作者の手を離れて自走を始めている。
書き手であるはずのおじさまの望む方向ではないほうへ、自由奔放に進んでく。
嘘かホントかわからんですが、小説家の話で、うまくできたキャラクターは勝手に動くって聞きますよね。書いてる方も結末がわからないってやつ。アレなんでしょうね。
さて、実はおじさまは、病気でもう先が長くない。
盟友・芥川龍之介の妄想におじさま(室生犀星)は劇中で吐露します。文学を残し、生にしがみつかず美しく死んだ芥川を理想とするも、死ぬのは怖いし生や性に執着してしまうし、自分の残す文学にも納得できず、最愛の小説の登場人物さえ自分の自由がきく展開に描けない。
作者とキャラクターの愛情の行き違いが切なくて堪らないねぇ。
幽霊のキャラクターが出てきて、それもどうやらおじさまを愛する小説の登場人物なんです。
ですが、おじさまは、そのキャラクターの登場を否定するんですね。なぜなら、その幽霊がおじさまの病状の悪化に伴っておじさまの家へ近づいていくように、おじさまにとって忌むべき「死」の象徴なんです。
でもこの幽霊もおじさまを愛しているんです。
けれど、選ばれなかった物語だった。
いま作者に必要とされていない物語でも、作者を愛してる。
こういう作者と創作物の相互依存みたいな関係のストーリーはグッときちゃうんですよ!
きちゃうんですってば!
■まぼろしでもウソでもいいじゃない!
「喪のまま結婚する事無く八十数才になった俺」
とかで検索かけると出てくるネットのテンプレがありまして、
まあ、たいへんベタベタな展開。
「オチに困ったら登場人物は殺して、幸せな夢を見せればいい!」
なんかの漫画で言ってた気がする。漫☆画太郎とかの。
でも自分はこの構図にめっぽう弱い。
絶対に来ると先を読んで身構えていてもモーレツに弱い。
完全に琴線で、実家の犬が死ぬ想像か、このテンプレ思い出すとチワワなみに目が潤みますからね!
んで、まさに「蜜のあわれ」はコレしてきやがりました。
ラスト近くで、家出した後に、死んでしまっていた赤子(金魚)が、作品の冒頭で夢見ていた、金魚の彗星となっておじさまの元にやってくる。
死にゆくおじさまの手を取って、ふたりはダンスを踊るのです。
だってこれ、夢か妄想でしょ。
傍目にクッソかっこわるい最期ですよ。
でも、僕の涙腺ボッロボロ。
この映画全編通して、冷静に考えればほとんどラブプラスやってるおじさんだよ。
妄想の美少女と恋愛シミュレーション。
寧々さんとか凛子ちゃんとかと恋愛や喧嘩したり、熱海で2人部屋に泊まったりしちゃうようなもんですよ。3DSのかわりに脳内なだけで!
でもこんな死に様、ダメダメなんて言えるわけないじゃないですか。
この間読んだ『月世界小説』でもそうだったけど、よく言われる希望だってフィクションのひとつに変わりはないんだろうよ。
そう思ってしまうので、すげえ情けない話、この映画はたいへん胸にきました。
結局、何がどうだかって話なんですが、二階堂ふみがエロかわいかったってことと、それだけじゃねえ切実な内容で私大満足!って話。