妄想がイキイキしてるって、『月世界小説』感想
私は牧野修の本が好きである。
純朴な高校生の際、牧野修の『楽園の知恵〜あるいはヒステリーの歴史〜』を読んだ私はその気持ち悪い妄想と狂気への振りきりになんらかの初体験を持っていかれ、内臓ゲロゲロも苦手な無垢だったはずの性癖にぐちぐち膿んで治らねえような傷をつけられた。そんな後ろめたい本だったおかげでコタツの上に置いていた読みかけの牧野修を母が手にとっていたときはマッハで横から回収する有様だった。少年にとって牧野修はエロ本と同じだった。
最新刊である。牧野修『月世界小説』を読みました。
というわけで今回も私が満足だった話をしたい。
裏表紙のあらすじをざっくり見てみましょう。
友人とゲイパレードを見に来ていた青年、菱屋修介は、晴天の空にアポカリプティック・サウンドが響くのを聞き、天使が舞い降りるのを見た。惨劇のただなかから菱屋は自分の妄想世界である月世界に逃げ込む。そして神と言語をめぐる戦いに巻き込まれていく。人間は言語の力を武器に長い戦いを続けていたのだった。
もう面白い。
ゲイパレードを見てからアポカリプティック・サウンドを聞いて天使が舞い降りるまで開始から10ページないドライブ感だ。
なお、世界の終末を告げるアポカリプティック・サウンドはYouTubeでも多数お聴きになれますので、オカルト興味にはあらすじの単語だけでワクワクしっぱなしだった。
■つよいぞすごいぞかっこいいぞ
妄想が妄想を孕んだ多重世界を舞台に、世界を書き換える言語「ニホン語」をキーにして神(本当はしめすへんの【示申】)と戦う主人公の菱屋=ヒッシャー=筆者
と、とても日本語で書かれた小説であることに自覚的な小説は小説だからこその技法による映像化不可能っぷりを容赦なく炸裂させた。これじゃアニメ化はあきらめるしかない。本で読みましょう。
こうした現実で私たちがこの小説を読む事実を小説にあらかじめ含んでいる構造は間違いなく言語SF。
そして、これはめちゃくちゃかっこいい言語SFだ。
並行多義言語、第五十七物語機甲部隊、工業用魔術師、脚注弾、記号破壊砲、35ミリアナグラム弾、落丁爆弾、兄妹との言語戦などなど
センスのかたまりのような単語がバンバン登場する。
女の子と
「ほらここ…7.62ミリ校正赤色弾って書いてある…いいよね…」
「いい…」
って会話をしたい。できないが、とてもかっこいい。
かさねてかっこいいことに、言語で作られた妄想であるはずの小説で、非言語的存在=神(しめすへん)とのバトルがあってしまう。言語なのに非言語って、むちゃっぷり。
語られぬことで語られる非言語的存在とは、社会的な不文律。雰囲気。「場の空気」や穢れの概念のような、時に文化や慣習だったりする「なんとなく」のことであろう。
そう私は解釈しているのだが、その「なんとなく」を物語におとしこんで、言語化した末に戦っている物語の状況。それはこの本そのものなのだ。
くぁ……かっこいい……。
そうか、この本がこの本である理由がてのなかにあるんだね。ブックカバーの中の戦争なんだね。
そんな現実と非現実の区別がつかない私なんぞ、小脇にこの本を抱えているだけで言語兵器を携えた戦士になれるのだ。
■だから夢の話は泣いてしまうってば
菱屋修介は残酷な現実から妄想の月世界へ逃げ込んだ。
これに私はたまらんものがある。
現実逃避のような幻想が大好きだ。
パンズ・ラビリンスとか好きっ子だ。
最近だとまどマギ劇場版のほむらちゃんかい?
いいねー。やっぱ。
つらい現実に直面している女の子に限らずとも、私だってそういった物語を必要として、生きる希望にも未来への期待にもなっている。
だから劇中にある一本の煙草とファンタシーの話のように、耽溺してしまう危険に触れながらも、こういう、物語がなくちゃ耐えられない人たちへ寄り添う視点はたいへんホロリとしてしまうものがあった。
ずるずるぬちゃぐちゃした悪意を呼吸するように書く牧野修先生は硫黄の息やら瘴気を吐いてるイメージ(私の一方的な)なのだが、時にこの小説のようにハッとするくらいピュアな夢を見させてくれて良い。
「逃げゆく物語の話」「黎明コンビニ血祭り実話SP」とか過去作の要素も散見して、牧野言語オールスターパレードでもあってとてもニヤニヤできた。そんな牧野パレードを見ながら手をつなごうもまわりに読んでる人間がいなかったので手は空気を握りしめる私はここです。