日曜日はなかった。

Sunday is dead. 日々の雑感。見たアニメや映画、読んだ本とかについて。

かっこわるい大人にしかなれないなら、せめて 『アベノ橋魔法☆商店街』 感想

 夏のノスタルジイに誘われて思い出を再確認したくなったため『アベノ橋魔法☆商店街』をイッキ見した。

 

アベノ橋魔法☆商店街 Blu-rayBOX【初回限定生産版】

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  キッズステーションで放映していたのをブラウン管の4:3画面で見ていたものだから、16:9の液晶テレビでは今まで見えなかった両脇ぶん映像の情報量が増している。おお、これHDで作られていたのか、想定より幾万倍も画質が良い! と驚いたが放送はもう2002年なのだから当たり前の品質である。我が家のテレビがデジタル対応して16:9になるにはあと10年かかった。

 
記憶を掘り起こして鑑賞どころかろくな記憶も残ってなく、キッズステーションの放送時間というものを把握する脳みそがなかった私には「なんだかたのしいアニメだったなあ」程度の思い出だ。そんなみそっかすな思い出を手のひらで転がすつもりで再生ボタンを押したのだが、これがどうして情報量が増したせいか、重く心に響いたのだった。
 
というか、後半につれて「おおっとお~ッ」って変な声でた。この感慨をヒトに伝えたくて仕方ない。
 
2002年のアニメにネタバレもあらすじもあったもんじゃない。
話としては都市再開発で取り壊しが決定している大阪下町アベノ橋商店街、そこに暮らす少年「サッシ」と、再開発に伴って北海道に引っ越す予定の幼馴染の少女「あるみ」の二人はひょんなことから異世界に飛ばされてしまう第一話からスタート。毎話毎話、二人は「剣と魔法のRPG風ファンタジー」とか「SF・特撮もりもりの宇宙コロニー」とか、パロディにパロディふりかけ満載の異なるアベノ橋商店街に飛ばされてハチャメチャな騒動に巻き込まれるアニメである。
 
スタッフや脚本のわるふざけをツッコミで迎え撃つ攻撃的な視聴スタイルを求められ、なかなかカロリーを使う。
回ごとに作画や絵コンテ・演出が遊びまくるのは最近で言えば『スペース☆ダンディ』みたいな作品だ。☆繋がりか。その多種多様な戦闘フォーメーションは視聴者個人個人にヒットしなければとことんヒットしない回があるし、当たれば致命打をくらうほどオモシロかった。作監今石洋之の趣味のせいで画面上一番動くってこともあろうが、2話「合体! アベノ橋☆大銀河商店街」と12話「大逆転!? アベノ橋☆ハリウッド商店街」は一番キてました。お気に入りです。
 
と、まあ~、スラップスティックに底抜けに明るい本作品なんですけど、最終話へ至るにつれ急転直下、重くなってきたから私は驚いた。流れ変わったな。これオチまでいいますよ?

■ 明るいはなしは置いといて

 二人がもとの世界へ返れず9話分もバージョン異なるアベノ橋商店街を彷徨していた原因が判明するのです。
 
もとの世界ではあるみちゃんの祖父である「雅じい」があるみちゃんの目の前で落下事故によって死亡するというツライ現実が待ち構えていました。二人が帰れなかったのは、サッシくんが陰陽術であるみちゃんが悲しまない世界を作り続けていたからでした。
 
ってことで最終話は、ついにネタギレで困るサッシ。商店街が潰れても自分が引っ越すことも仕方の無いことだ。十分遊んだから、もとの世界へ戻ろうと促すあるみちゃんは、引っ越す北海道の先へ、いつかニューヨークへ行きたいのだとサッシへ話す。
 
「生まれた場所にずっといるのがこどもで、どっか遠くへ行くのが大人なんか?」そうぼやくサッシに、いつか月の上へ行って、地球のどこにも無くなったアベノ橋商店街を、ただ心の中で思いたい。そう、あるみちゃんは答えるのだ。
 
ここらへんがかなりオモシロい。
 
だって、この作品で肝なのは、とことんパロディをしてきたってことで、それはスタッフやオタクが食べてきた思い出の作品。自分の嗜好が生まれた場所ってことだ。
彼らは、僕らは、その生まれた場所から卒業できないで、焼き回しを追い続けている。
 
じゃあサッシのしていることは、この作品でパロディを9話分続けてきた、まさに制作している人たち自身のことじゃないか。
 
アベノ橋を作っているスタッフたち、彼らはいつまでもこどものまま、誰かを喜ばせるためにでたらめの世界を描き続けている。そのことに自覚的なのだ。
 
サッシの父は言う。サッシのやっていることは、こどもだましだ。そんな頭の中だけの作り物は、石ころ一つ動かせない、と。最終話の大半で、とことん夢の中に閉じこもってばかりじゃいけないと、大人は妄想をこき下ろしていく。
 
実は雅じいが死んでいると察しているあるみちゃんは現実を受け入れる覚悟をしているのだ。「あるみちゃんを悲しませたくない」というのはサッシのエゴで、わがままだ。結局は自分の足でどこかへ言ってしまうあるみを手放したくなかっただけでもある。あるみちゃんは夢を語るのだ。ニューヨークへ行きたい。月へ。どんどん遠くに行こう。あんなあほな宇宙じゃなくて、妄想じゃなくて。うその世界じゃなくて。
 
サッシ=スタッフたちがしていることはそういう現実の願いや可能性さえ夢の世界に閉じ込めること。捕らえてしまうこと。現実は何一つ変えられない頭の中だけの創作物は、誰かが現実を直視して大人になることを妨げているかもしれない。
 
これが衝撃だった。
 
このアニメは、つくっているスタッフ自分自身が創作に対して後ろめたさを負っているのだ。
 
自分たちの作っているのは、こどもだましのおもちゃなのだといっているのだ。
 
創作は世界を変える。つらいことや苦しいことから僕らを守って、生きる希望にもしてくれる。そういう創作によるポジティブな現実逃避の価値は、けっこういろんな作品でテーマにされるけど、ここまで創作物の負の面と創作者の罪に自覚的な主張をしている作品は僕にとって初めてだった。
ガイナといえばのエヴァだって、視聴者の尻を蹴り上げたけど、自分たちが作っている作品の罪は自分たちにあるんじゃないかってメタ的な要素はここまで主題に扱っていないと思う。
 
だが最後の最後になって、こどもで無力なサッシは、結局大人(安部清明だが、このヒトもこの作品の中の「大人」に分類されるとは言いがたく、理論武装したこどもに近い)に頼った力と知識をつかって、接合性と現実感のあるサッシの妄想世界に世界全体を飲み込み、書き換えることを選択した。サッシは自分の妄想にすべて引き込むことを覚悟したのだ。
 
ちょっとまってほしい。
びっくりした。
 
普通の作品だったら、ここでサッシは現実を選び、あるみとともにもとのアベノ橋商店街に戻るはずではないのか。それがひと夏の少年の成長というものではないのか。
 
だがサッシは現実を直視することをやめた!
あるみの覚悟も夢も全部ブッ千切って、雅じいの死なない、アベノ橋商店街も失われない理想の妄想世界を作り上げることを選んだのだ!
 
これはすごい!
スタッフの覚悟ですよ。
 
「俺たちは、こどもかもしれない!嘘しか作れない!その嘘が誰かを不幸にするかもしれない!わかったよ。だったら視聴者が現実に戻れなくてもいい!最高の夢を見させてやる!創作することが罪なら、おれが背負ってやる!」
 
身体は大人。頭脳はこども。これが、かっこわるい大人だ。そういってんじゃないの。

■ガイナの非成長願望

 『アベノ橋魔法☆商店街』で、サッシは現実を直視することを拒み、妄想を選んだ。これは覚悟がある。だが、劇中で言われていたあるみちゃんのような大人ではなく、こどもっぽいわがままによるものだろう。
 
以前の記事に書いた。『放課後のプレアデス』では、自分がどういうものか気付き、自分を赦すことを成長の一つとしてあつかっていた。逃げ続けるプレアデス星人の話もした。 

なんだかこうしたジュブナイルものを描くガイナックスの傾向として、

いろんなことに真正面からぶつかって乗り越えて大人になる=「成長」である、としていない気がする。
フリクリ』だって最後まで、周りに眼を向けずナオ太は「つまらない」といい続けている。
 
君みたいに、僕たちはそんな強くないんだ。
かっこわるい大人にしかなれないんだ。
 
みんなのいう大人にならなくても、成長ってできるんじゃないの?
かっこわるくても何か手はあるんじゃないの?
 
ガイナックスのオリジナル作品は、一般的にぜんぜん受け入れられなさそうなそんな泣き言みたいな願いを探り続けている気がして僕はならなかった。
こういったバットを振り切らない思考に僕はたいへん好感をもつしたまらないのだが、いかんせんおもいっきり振り切らないとエンターテイメントを期待してる観客は気持ちよくならないんじゃないかなあ。
 
アベノ橋魔法☆商店街』はこうして結末を迎えたが、やっぱり胸をはって「これでいいのだ」といえない。わからないのだ。その証拠に、最終話なのに次回予告がある。それは一話の次回予告だ。
構造としてループするのだ。この結末でよかったのか。サッシはこれでよかったのか。現実を認めて、真正面から壁にぶつかる大人になるべきだったのか。サッシの父があるみに言う。「ここが正解や」。正解はどこだ。
 
軽い気持ちで視聴し始めて、あるみちゃん死ぬほどかわいいんじゃあ~^^の感想だったのだが、最後の最後にそんな問いを視聴者に全力暴投してきた。とんでもないなあ。
 

■余談 

 スタッフロールを見ていたら、次回予告と大阪弁監修がSF作家の田中哲弥だった。「んん?」ってなって二度見した。
 
近年は豚とか猿の内臓や人の糞尿を湯船に溜めて山羊の頭骨をかぶった全裸中年男が呪文を唱えつつ追い炊きし続け13日目の晩に煮凝りから生まれました、というような小説『猿駅/初恋』みたいに邪悪な作品ばかりに慣れていたので、すっかりコメディの方といったイメージがなくなっていた。そうだったそうだった。ドタバタギャグ的には昔読んでたら、眉をひそめた友達に「それおもしろいの?」っていわれた『ミッションスクール』思い出しました。アベノ橋は『大久保町』っぽいけど、皆目読んでいないのがなさけない。いい機会だし読もうかしら。

 

ミッションスクール (ハヤカワ文庫JA)

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猿駅/初恋 (想像力の文学)

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大久保町の決闘―COLLECTOR’S EDITION (ハヤカワ文庫JA)

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僕らはスカートのしたに魚系女怪人を見る『深海魚のアンコさん』感想

■今回はエロエロ言い過ぎた

僕のぽんこつなアンテナのせいかコミックリュウの努力の賜物かわからないけれど、ちゃくちゃくと「人外」とか「亜人」のキャラクターをアニメやマンガで見かけるようになったと感じている昨今。ラミアやケンタウロスの美少女がスライム娘の粘液まみれになったりハーピーが無精卵の出産をしたりと、人間でないから良いとばかりにいやらしい今期アニメ『モンスター娘のいる日常』も喜んで視聴している。
 
たぶん世のお母さん方も『プリズマ☆イリヤ』を息子が深夜隠れて見ているよりか、ハーピーの出産とかラミアの脱皮を真っ暗なリビングで見てる息子のほうに学研のいきもの図鑑めいた健全さを見出すのではないか。水族館や爬虫類館も暗いし。アリバイ的にその子が常日頃トカゲやザリガニを飼ってたりするとなおよろしい。母さん、ぼくいきものが大好きなんだ。とても生きやすい世になりましたね。
 
そんないきものだいすきな僕が本屋で買い続けて周囲に勧め、数ページぱらぱらめくった先輩に「へえ……〇〇くんはこういうのが好きなんだ…」と興味なさげに流されたマンガ『深海魚のアンコさん』がこのたび最終4巻を迎えていた。僕はつらくなった。
 
ネタの在庫としていつまでも続けられるものとは思っていなかったが、ワクワクしながら4巻の表紙を開いた僕は「最終巻です。」との文字を視認した瞬間、足元の床が抜けて宙へ投げ出された程度の心理的衝撃を与えられた。帯とか表紙に最終巻雰囲気が微塵もない最終巻は心臓によろしくないのだ。とりあえず植物図鑑、動物図鑑、魚図鑑、深海魚のアンコさんと並べてしまおう。4巻まで楽しませてくれてありがとう。
 
犬犬・作『深海魚のアンコさん』は、人間とは別に人魚が地上で暮らしている世界で、人魚の女子高校生アンコさんと、その友人であり過度の人魚オタクである若狭ちゃんの織り成すドタバタコメディである。そしてこのマンガは時々とてもエロい。
 
エロねえ。でも人魚はポピュラーな感じがして、いまさら…。「モン娘」の人魚キャラだって人魚要素よりも地上で車椅子乗ってる要素のほうがグッとくるんだよなあ…って罪深い人間も多いんじゃなかろうか。僕だってそうだ。(仲間をさがす目つき)
 
女の子の下半身が魚だと、その部分へ意識がいってしまうがゆえにむしろ隠匿された脚が際立つのだろうか。首まで魚の日本式マーメイドや美脚の魚は人間部分の体積が少なくなるから、人間部分が隠匿してるのは魚の部分になってしまって魚くささが前面化するのだろうか。なるほど、隠されているというのが大事だ。我々は青春時代に女の子を直視できずうつむきながらチラチラみている日陰の生き物だった。無駄に長かった前髪も貴様のメガネも全て視線を悟られないために利用してきた器官だった。視線を避け眼を合わせず、背中で気配を感じて制服の衣擦れの向こう側に彼女たちを索敵していたレーダーマンたち。深海魚や洞窟の生き物ばりに鋭敏化した暗い妄想の末、我々は見ないことによって心眼が開かれていたのではなかったか。(おおきい主語)
だからいかにモン娘が粘液ぬるぬるでマーメイドのビキニがポロンポロンしようが、それは乳首解禁や不自然な光の帯が消えた円盤特典みたいなおっぱいでビンタしてくるアメリカンでハイテンションな西海岸的エロスなわけだ。実は欲しいのはそういうことでなくて、夏だったら女の子がラムネ飲んでるのを妙に唇よりなカメラで映すとか、熱射の昼下がりに汗だくで畳部屋に座らせておくだけだとか、麦茶の氷がカランと鳴るだとか、実質的なエロじゃないはずなのにエロくみえるシチュエーションっていうのはとりわけHなわけですよ。エロく見えないけどエロい隙間が閉塞感を打破するのに必要なんです。スカートの中が見えなくたってそこにスカートという未観測域があれば真っ白なキャンパスにいくらでも想像の宇宙を描けたわけじゃないか。シュレーディンガーの猫とか何のために意味も分からず覚えたのだ。僕たち誰もが一度は中学生だったんですよ。
 
で、アンコさんはチョウチンアンコウの人魚なんです。アンコさんは自分のチョウチンアンコウである不恰好な尾びれにコンプレックスを抱いているんです。
 
人魚たちは人魚薬なる市販薬を服用することで二本足を獲得し、地上で生活が出来るようになっているのだけれど、薬の効果が図らずも切れてしまったアンコさんが若狭ちゃんの前で誰にも見せたくなかった尾びれを見せてしまう第1話があるんですけど。こちらで試し読みできるんですけど。
  
保健室のベッドの上で! ぶっきらぼうで気の強かったはずの気になるあの娘が! 人に見せたくなかった身体の部分を見られたショックで泣いちゃう…!
だいたい、かわいいあの娘が苦しそうだったので保健委員の私が手を上げてトイレへつれて行こうとしたら、自分の目の前で漏らしちゃったよ。って感じの状況です。あっ、これイケないもの見ちゃったなあ。そのピチピチピッチな尾びれに友人の若狭さんが「アンコ かわいい…」「わたし、なんか感動しちゃった…」と神秘的な生命の営みを目の当たりにしたようなコメントをするのだ。
 
まあ、なんだろう。ほんっとエロいよね。
見てるの魚の尾びれなのに、上に恥らう女の子の上半身がついてればいいわけ。尾びれは性のシンボルなんですな。あと関係ないけど、アンコさんたち人魚はパンツはいてないっぽい。
 
毎話いろんな魚の人魚の女の子が登場して、いきもの図鑑っぽい楽しみもつよい。繰り返し読めばあだ名はハカセかさかなクンだ。さんを付けろよデコ介野朗する練習をしておこう。
ウナギ娘は緊張すると皮膚から粘液だらだら出してブラウス透けさせてしまうし、ブルーディスカス娘は体表からミルクを出す。僕は鮫島先輩をオススメして、彼女はサメだから近眼で目つきの悪いメガネっ娘だし、生魚とかバリボリたべてギザ歯を血で真っ赤にしている。こういうちょっと違う彼女だけの秘密みたいなものを往々にして僕らは欲し続けてこういう作品を摂取している節があるから、ニーズに答えるとこのマンガのような様々なちょっと普通でない女の子の日常を描いた美少女怪人図鑑が一定層に届くのだ。ロボだろうが宇宙人だろうが妖怪だろうが亜人や人外だろうが、少し人ならざるものに甘酸っぱかったり少しHな憧れを見出そうとするのは、見えないものを見ようとした中学生の心眼がうずいている。最近は人外ブームだっていうのなら、我々は女怪人を望んでいる。女怪人の女の子の部分と怪人の部分を半分半分で見たがって、これは見世物小屋見物のような精神も一緒なんだ。ああ、女怪人は強さと切なさと、エロさでできている。こうした素敵なものの周りで右往左往して良イーッ良ィーッいってる僕は全身タイツと眼だし帽の着用義務も重いキックを受けるリスクもなく、たいへんオモシロく読めてしあわせなのだなあ。
深海魚のアンコさん(1) (メテオCOMICS)

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