日曜日はなかった。

Sunday is dead. 日々の雑感。見たアニメや映画、読んだ本とかについて。

なんてエロい蟹だ。最高だ。『かにみそ』感想

 

かにみそ (角川ホラー文庫)

かにみそ (角川ホラー文庫)

 

 ひょんなことから、倉狩聡『かにみそ』を読みました。

 
第二十回日本ホラー小説大賞優秀賞受賞作です。西島大介のほんわかした表紙絵がたいへんキュートですね。
私は西島大介の絵がとても好きなので、表紙を一見して「あっ これは優しそうな顔して内容エグいやつだ! でも最後はホロっとするんだろ! こいつめ!」と察するわけです。
結論から言うと胸と目頭がとても、あとすこし股間が熱くなりましたね。こいつめ!
 
あらすじとしては、主人公は実家にパラサイトする厭世的な20代の無気力ニート青年。ある流星群の夜に、そんな彼は浜辺で小さな蟹を拾う。蟹は砂に着いた有機物を口でこしとって、残余物を団子にして積み上げる習性があるが、その食べ方に青年は異常に魅力を感じたのだ。ところがその蟹、砂だけでなく鶏肉から魚肉ソーセージまで何でも食べるし、どんどん大きくなってサイズまで変幻自在。しかも人の言葉で会話ができちゃった。青年と蟹との奇妙な共同生活が始まった。
だがしかし、蟹の食費のため働き始めた職場でできた彼女を、青年は衝動的に殺してしまう。その死体を蟹に食わせた夜から、人を食べたがる蟹と青年の人間狩りが始まることとなったのだ……!。
 
ホラー小説ですからね。
でもね。
そうはいうけど、私は蟹にね、たまらなく萌えまくったわけですよ。

ラノベだったら美少女と出会うんだろうけどね。

イケてないニート青年のもとには美少女が現れるのが普通なんだろうけど、この作品じゃあ蟹です。
 
でもこの蟹、問題なし。
 
一人称は俺で、口調は青年のそれなのに、声は少女のアルトを思わせる。両性的な雰囲気を醸し出してますね。
しかも、気がきくし話も面白いし、いつも主人公のことを気にかけてくれる理想的な友達。
仕事に疲れて帰ってきた夜に布団もかけてくれるし、主人公の寝顔を眺めて、まるで恋人のように気遣ってくれる。
 
そんな蟹ですから。
ね、かわいいでしょ。
 
それに、とにかくエロい!蟹エロい!
 
蟹の要求がエスカレートして夜に人間狩りを始めた主人公と蟹が、映画館において、これから食べようと狙う人間の真後ろの席で一人と一匹が少女の声を発揮してノリノリでいちゃつくカップルを演じるシーンはエッチ極まりない。
 
『こんなに興奮したの初めて、ふふ、誰にも見られてない?』
 
人喰った後にこんなこと言うんですよ。なぁんてやらしい蟹だぁ!
 
また別に、蟹は脚の一本ケガをしているんですけど、主人公がポケットの中にいる蟹に手を入れて、その治りかけで敏感な場所をいじるシーンがあるんですよ。
最初は小さな悲鳴を上げるほど過敏で痛いはずの弱点を、主人公の指先に弄ばれることを蟹は拒まないんです。
そしていじられているうちにくすぐったい笑い声から、少しずつ小さな喘ぎ声にかわっていくんですよ。
そうするうちに主人公の過敏な場所も興奮してくるんですよ。
 
ああもうこれ、完全にセックス!
蟹とセックスのメタファー!
 
友情か愛情か、愛おしい。
蟹の無防備な信頼感がエロすぎるんだよなあ。

■生き物は最後まで責任をもって飼いましょう。最後とは死のことです。

ニートで実家に寄生して、「このままじゃいけない」ずっとそう思い続けているけど行動もできないし、そのくせ自分を受け入れてくれている両親の優しさに息が詰まって、憂鬱になる。
そんなどうしようもなく情けないってわかってる主人公が、唯一心を開けたのが蟹だった。蟹との生活は楽しいし、蟹の食事代のためバイトも始めた。蟹が喜ぶからって、一緒に人殺しまで始めたのだ。
 
でもついに、その異常な日常に気づいてしまって、罪の意識にさいなまれる主人公。
 
この、蟹との人間狩りは誰でもない自分の問題なんだって自覚するプロセスの小市民っぷりもたまらないものがあった。
全部非現実的なテレビの向こう側みたいに他人事だったことを背負った瞬間、飼っていた蟹が手に負えない化け物だってわかってしまうのは怪獣もののセオリーさえ感じた。
怪獣は、そうじて人間の手に負えないのだ。
 
蟹が人間を食べることに罪はなかった。ただ別の生き物だったからだ。
そう気づいた主人公の、罪の発端が彼女を殺した自分にあるということと、その味を覚えさせてしまった後悔。
ストレスで吐く主人公の背中を鋏でさする優しさを持ちながらも、人間を食べることをやめられない蟹を、どこかでやっぱり違う生き物なのだと悟る。
主人公のこの、悲しみ。
「なぜ僕を食べないんだ」と言う主人公に蟹は答えるのだ。「友達は食べないよ」
主人公は最愛の友人を、自分の手で処理しなくちゃいけない。
 
なんでお前が人間じゃないんだ。
 
主人公の叫びが切実すぎる。
なんかもうこれが自分はたまらなくって。
 
この友情と愛憎まじった感じはなんだろう。
語弊があると思うけど、BLとか百合とかその類っぽいって思ったし、間違いなくこのラブストーリーは人外愛でモンスター娘系だろ!って力説したい。
それに、ちょっと不思議な出会いがあって、体験と別れを経験して少年は少し成長して、いつもの日常にもどる。そんなポプラめいた児童文学性も感じたのである。
 
そしてあのラストの繋がり方は切なくて仕方なかったし、蟹を含む小説としては『かめくん』を思い出して、蟹を食いたくなる系小説五本の指に入る出来でたいへん良かった。(他三本は知らない)

 

かめくん (河出文庫)

かめくん (河出文庫)

 

  いや、まったく。

美味いって悲しいんだね。
美味いって悲しいんだよ。

■百合の火葬

本小説は『百合の火葬』という中編も収めてある。
これがまた良い。
 
かつて「おねショタ」だった男女の数十年後といったていで、「ママ…」なとにかく母性がすごい(あたまのよわいかんそう)
 
しっかし、この作者、うまみを無自覚に消費しといてその生産元が自分の手に負えないと気づくっていう情けない主人公書くのがとても上手だなあ。
それに毎回関係性がフェチくなあい?
 
ところで、倉狩聡の二作目は流星群の夜に犬が知性を持つそうだ。そのうち読みたい。
 
……この作者、やっぱりトリフィドの日が好きなのか?

 

今日はいぬの日 (角川書店単行本)

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トリフィドの日~人類SOS!~ [DVD]

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「おのれ、映画版『屍者の帝国』と『屍者たちの帝国』!」感想とあれこれ

■Puroject・Itohにかこつけて、映画版『屍者の帝国』を見てきた。

このあいだね。(一ヶ月前) 
 
伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』と、円城塔×伊藤計劃 (伊藤計劃×円城塔?)の『屍者の帝国』が劇場アニメ作品となって帰ってくるらしい。というか帰ってきた。
もうすでにヒットしてようがなんだろうが、自分の好きな作品がより多くの人間の目にどんな形であれ触れるのは、いつのまにか贔屓の作品打ち切られるBOYの僕にとってうれしさの限りなわけだ。
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プロジェクト・イトー三部作つってんのにその公開一作目から『屍者の帝国』。
それもうほとんどの成分が円城塔じゃん。伊藤計劃の執筆した冒頭は映画に描かれてないし、じゃあもうこれ100%円城塔じゃん。円城塔初映画作品じゃん。マングローブ(アニメ制作会社)のことは悲しい事件だったね。とかそういう気持ちで見にいった。
 
円城塔の長編版『屍者の帝国』はフランケンシュタインの屍者技術が現実に普及した19世紀末に、シャーロック・ホームズのワトソンが英国の諜報機関に巻き込まれてアフガニスタン奥地にアレクセイ・カラマーゾフを追う、って007なスパイ作品だか地獄の黙示録なあらすじのなかで、歴史上の人物や出来事に往年のキャラクターをふんだんにちりばめできあがったエンターテイメント作品である。参考資料に裏打ちされた賢さのうえ、フィクションもヒストリーも混ぜこんでハチャハチャになったありえない雰囲気はたいへんバカSFっぽいと僕は思う。褒め言葉だ。
こういうお祭りみたいなボンクラさがとても好きです。
 
映画自体は何が起きても僕は赦すぞ、という気持ちで視聴した。
基本的に原作付きの劇場作品はそのていで見に行くのがもっとも精神衛生上にいい。
 
ワトソンとフライデーが友人だった設定が新たに付け加えられていることと、原作にあった言語やら菌株といった意識のよりどころがどうのといったお話がスポイルされて、少年漫画みたいな魂の主張をしながらワトソンくんが最終決戦を駆け抜けることが小説版と比べて僕の中の二大変更点。
 
前者はワトソンとフライデーの関係が強化されて冒険の動機付けとしてとても良い感じになったと思う。フライデーフライデーと固執するワトソンくんのBL感は原作で注目してなかった要素だったのでたいへん興味深く面白かった。小説でもかわいかったフライデーもよりいっそうかわいかった。おかげでワトソンくんのキャラが濃ゆくなったね。
 
自分はハーモニーに百合を感じてたけど、屍者の帝国にBLは見出してなかったのでこの追加設定は新鮮だった。でもフライデーを円城塔、ワトソンを伊藤計劃としてみる読み方が原作にあったと思うから、円城塔伊藤計劃をBLとして見ることが出来るモンってことなんですかね。なるほど勉強になるなあ。
 
後者に関しては、意識や言語やバベルの話がまるっと語られなかったせいで、あの結晶やらなんやら見ていた友人は「まるでなにがおきているのかわからん」と言ってぽかんとしていたし、ぼくも正直わからん。
 
鑑賞後友人らと台湾料理を食べながら感想交換のうち、最終決戦はワトソンの恥ずかしいセリフが勢いだけっぽくて浮いていたよなあ、の言葉があったが、あんな少年マンガみたいなセリフを円城塔が書けるはずないだろ!と一蹴する事態に陥る。まあ、さすがに人間の意識は別のXによって生じているといったお話は込み入って映画の中で消化し切れんのは事実だろう。赦す。
 
言ったろ、僕は最初っからすべて赦している。
 
あの映画で僕がオモシロかったのは、原作遵守がどうのこうのより、BL設定の付加とかいっそ二次創作的な映画だったことで、それは『屍者の帝国』という大変稀な経緯をもった作品の性質上、大手を振って許容される。むしろ推奨されている『屍者の帝国』の構造でちゃんと遊んでいることが良かった。
 
友人は「おもろなかったなあ~」とずっと不満げだったが、心配なのは次「ハーモニー」「虐殺器官」をこの友人は一緒に見に行ってくれるのかどうかだ。本作に限ってはこの状況のSF感そのものにぼくは満足してしまっている。
 
これだよこれ。これこそが屍者の帝国
 

屍者の帝国の屍者たちと兵馬俑なぼくら

映画に前後して、大森望責任編集『書き下ろし日本SFコレクション NOVA+ 屍者たちの帝国』を読んだ。 

 これは8人の作家が屍者の帝国のプロローグ、つまり伊藤計劃の作った世界観の元で別々の作品を書き上げるって企画のアンソロシーだ。読んで初めて知った言葉だが、こういうのをシェアード・ワールドというらしい。

 
アンソロジーで短編集で、なんだか流行のプロジェクト・イトーの尻馬に乗ったおまけなんでしょ、みたいなふうに思われるかもしれない。
ちょっとまってほしい。なわけあるか。
屍者の帝国』の一番オモシロいことは、伊藤計劃の作り上げた世界を基点にさえすれば誰が書いたあらゆるストーリーも平等ということだと思う。円城版だって「長編版」ってことのみで、極まって特別ではない、ってのがいい。
 
そもそもが屍者の帝国伊藤計劃の遺した設定だけで、円城塔の段階でもう二次創作みたいなもんだし、歴史上の人間や有名どころのフィクションと古今東西の物語の引用に引用を重ねて、あれを二次創作といわずしてなんといいましょうか。物語をつぎはぎしたフランケンシュタイン、<屍者の帝国>に巻き込まれた作品にみられるこのスタイルこそ屍者そのものじゃないかね。
 
このメタ的な構造がとても面白いと感じていて、あの映画やこのアンソロジーに収録されている作品、さらに原作というか長編版である円城塔の「屍者」だって全て〈屍者の帝国〉というおおきな網目に平等に収まっている屍者たちだ。
 
やっぱ、こういう意味で巨大化していく屍者の「帝国」で、きっとエンペラーは伊藤計劃なんだろうか。
屍皇帝だね。
このシャレはもう絶対どこかでつかわれてるんだろうな。
 
円城版の屍者の帝国の表紙はこのようになっていて、

屍者の帝国

アンソロジーの各扉絵も似たデザインになっている。

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このことからも〈屍者の帝国〉の屍者たちとして『屍者の帝国』と『屍者たちの帝国』は同じところに立ってるって、作り手も自覚してやってることなんだろうと思う。

■ここがプロジェクト・イトーか。だいたいわかった。

長編版よりも手ごろ感覚で、このアンソロもまた各作者が工夫を凝らしたいへん読んでて興奮した。
 
黒人奴隷と屍者の話をつなげようって発想は「たしかに」って手を打ったし、(藤井太洋「従卒トム」)、『白痴』を土台にこれでもかとオマージュ入れ込んだった高野史緒「小ねずみと童貞と復活した女」はこのアンソロでは一番ボンクラ度が高くてツボった。津原泰水「エリス、聞えるか?」はとにかく切ないし美しくってため息がでてたまらない。
でも、もっとも興味深かったのは、坂水雄一「ジャングルの物語、その他の物語」だった。
 
詳しいことは読めばいいんだけど、この作品がオモシロかったのは、筆者に比べて大きくなりすぎてしまった物語に翻弄される人間の苦悩や、どんな美しい物語もいずれ時代と共に忘れ去られていくこと、そしてそんな祝われた物語たちを守るためには、少々恥ずべきかもしれない手段さえ我々はとる覚悟がある、そんなことを語っていたことによる。
 
ちょっともう言わせんな恥ずかしいってくらいどストレートにメタってたんだ。まあ、伊藤計劃の作品群や、プロジェクト・イトーとかってもりあがる一連のプロモーションとかのことですね。
 
話は少し僕のことになってしまって恐縮なんだけど、屍者の帝国の映画を見た後友人に、
 
「君はこの正直イマイチな映画を、二次創作的構造が面白いってはしゃいでるし、伊藤計劃自身が死んでこき使われる屍者みたいな状況が面白いって言ってるけど、それって悪趣味じゃないか。夭折の作家とかいわれてプロジェクト・イトーされたり、ほぼ円城塔屍者の帝国とかで持ち上げられたり、死んだ人間で儲けられるならいくらだって利用して消費していいって現状は実際、倫理的にどうかとおもうよ?」(大約)
 
みたいなことをいわれたわけだ。
 
実際、Twitterや他のブログでも、そうやって金ヅルとして汚されているようだからと、プロジェクト・イトーとかへ拒否感を示す人は見かけたことがある。(保存してたわけじゃないからリンクとかはすぐにだせないんだけど)
 
そのときも、なるほど一理ある、と思ったのだ。
だれかが劇的に死んでしまったことに便乗していいようにあつかっているように見えて、反感を覚えるのもわかるのだ。死人にクチなし。墓場でピクニック。僕たちは死体の上に乗って遊んでんじゃないの。
 
とまあ、ここで先のアンソロの巻末に、なんとおまけとして円城塔のインタビューが乗っている。
そのインタビューに書いてあるやりとりのように、病室に訪れた円城塔伊藤計劃は「いま、死体の動く話を書いているんですよ(笑)」と嬉々として話す人間だったらしいし、悪趣味な悪ふざけとわかったうえでこの大きな展開になったのなら本人的によろしいことではないかと思う。
 
ただ死者の気持ちなんてイタコか霊媒師でもなきゃわかるわけないし、まして某エル・カンターレも出張ってはこないだろう。だからそこらへん、悪趣味なら悪趣味として、せめて道徳的にどう接するべきだろうかと考えていた。
 
だけど「ジャングルの物語、その他の物語」P325の
 
そして我が祝福された紙と文字の半身。私はあれから三十年ばかり生き、少しばかりこすっからく、そしてたいそう恥知らずになった。私は私の新しい家族を、アッシュダウンを、友なる屍者たちを守るつもりだ。そのためなら、お前の名前と名声を盗み返し、利用してやるつもりでさえいる。
 
って文言や
 
円城塔が「伊藤計劃の名を語り継ぐこと、その忘却を阻止すること」を目的としていたと、屍者の帝国文庫版あとがきで語っていたこと。それを本アンソロの大森望あとがきより知ったこと。
 
などなどで、個人的にまあ、吹っ切れた。
 
そうか、仮面ライダーディケイドと同じなんかな。
 
「すべてを破壊し! すべてをつなげ!」

仮面ライダー 平成 vol.10 仮面ライダーディケイド (平成ライダーシリーズMOOK)

公式自ら二次創作に手を出して、いまいちど忘れられつつあるヒーロー・歴代の仮面ライダーたちを子供らのテレビに取り戻す!そのためなら、作品世界の破壊者となれ、そういう作品だ仮面ライダーディケイド
 
原典の変更と再創造によるお祭り企画のプロジェクト・イトー。全ては、伊藤計劃を人々の記憶に改めて残すためだったのだ。そのためなら商売の悪魔だとののしられようと、我々には覚悟がある。
 
と関係者の知らん心のうちを想像するけど、これもあんまてきとーなこともいえんので、ここまでにしておきます。おまえは何様だってなる。
 
でも僕も、伊藤計劃これからもっといろいろ本出したはずじゃん! これからもっと面白くなりそうだったのにそれがストップかけられて悔しいじゃん!って気持ちは十分にシェアされている。そこはもったいなかったし、なんか悔しがりながら、誰か一人でもこの帝国で遊んでいてほしい気はしている。帝国が本当に滅亡して、屍者たちが止まるときまで。
 
というわけで、たまに「おのれ●●!」(●●のなかには伊藤計劃便乗コンテンツをすきに入れよう)って叫んで鳴滝していればいいと思う。そのときに「またやってくれましたなあ」って少し満足気な顔をしていればちょうどいい。