この瞬間一番日本SFやってるアニメなんじゃないの? ってなったこと。『ラブライブ!The School Idol Movie』
■ラブライブには力があると思います。
僕はTV版は一期・二期とあまり真剣に視聴していない。
いつのまにか友人が園田海未さんの話しかしなくなったり、突如周囲の男性らが語尾にニャーニャー付け始めたころからさすがに僕も「なにかおかしい」と危機感を持った。
もしかして世界にはμ'sの曲しかなくなってしまったんじゃないかってお祭り的な周囲の盛り上がりに、いまのアニメのビッグウェーブに乗り遅れたと遅まきながら気付き、そのお祭りの中を謳歌する友人らに歯を食いしばり耐えるばかりだったのだ。
だから劇場版ラブライブ見てきました。
「いま一番日本SFやってるアニメなんじゃないの?」
そう思った話をしたいと思う。
でも冒頭10分遅れて入場してしまいました。くっそ情けない。
※以下ネタバレ
■「これはとんでもないぞ」衝撃のニューヨーク編
シェイクでもしたのかってくらい時間や場所もジャンプしてミュージカルばりに挿入されるライブシーン。
既視感あふれる米キチ花陽ちゃんやトランプといったねじ込まれるサービスシーン。
そして謎の高山みなみ。
夢と消費的コンテンツの代表であるアイドルがアメリカンドリームと資本主義のメガストラクチャーたるニューヨーク(NY)を舞台とするなんて「自覚さ」に眩暈を感じながら、僕はどういうわけかNYパート全体にかもし出されるフィリップ・K・ディック臭に首を傾げていた。
おかしいなあ、ラブライブ見てるのになあ。
『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』で有名なSF作家フィリップ・K・ディックといえば、みんな知っているよね。
何が本当か嘘かわからないまま自分というものが曖昧になって、登場人物の信じていた足元が崩れる展開が十八番です。そのため、しょっちゅう時間や空間が不安定なのが特徴だ。
そんなディック読んでるときみたいな感覚に襲われたというのも、NYパートのシーンをつなげない断片的な構成が「夢」と「現実」をかき混ぜていたこともある。
帰国したらスクールアイドルとして全国的に有名になっていた彼女たちが言っていた様に「夢でもみていたみたい」という感想が劇場で見ていた僕にも発生していたわけだ。
そのなかでも重要な要素として穂乃花の出会った路上シンガー(cv. 高山みなみ)。
これがほの字の幻覚とかじゃなくって、かなりのキーパーソンだという話は最後にします。
まあ、ここらへんからこの映画はSFなんじゃないかって疑念が自分の中でムクムク育っていったわけです。
■消費コンテンツとしてのアイドル
この映画で眼を見張ったことに、「消費物としてのアイドル」という自覚が全編に見え隠れしていたということ。
帰国後、解散するはずのμ'sのもとにことりママ(理事長)から「μ'sを続けてほしい」と頼まれる。
僕は劇場で「すげい」と思いました。これって、まだラブライブで食べていきたい、まだ儲かりたい、ってコンテンツ産業から受けたニーズそのものじゃないの。
ここからの展開、そうした世間からの要請にμ's解散か続行か穂乃花は悩むことになるわけだけども
「μ's = 京極尚彦ら制作陣」
「世間= 現実のラブライブファン・まだ儲けたい人々」
になっていると思います。思います。
というわけで監督・京極尚彦の影として機能しながらも、穂乃花は物語のキャラクターとして自分たちμ'sは解散するかどうかを悩みますね。
ここでメタ的な要素をモロ出してきたことにより、キャラクターが自分たちの商品的期限について自分たちでケリをつける物語、というたいへんねじくれた見方の出来る映画に変貌するのだ。ラブライブすげえな。
さて、このラブライブ。彼女らをそうした消費コンテンツとして自覚したキャラクターであるとして見ると、たいへん面白いものが見えていた。
結局μ'sは解散を決定する。これはコンテンツ価値が十分あるときにスパッと辞める、まさに絶頂期アイドルの風格だ。
だがそれでは世間やファンの要求を無視することになりますね。
まだラブライブというコンテンツはうまみがあって簡単にケリは付けられません。
そこで京極尚彦=穂乃花が出した答えは
「μ'sは解散します!ですがこれからあなたたちが応援する対象はいなくなりましたか? ラブライブは終わりますか? いいえ 違います! ここにたくさんのスクールアイドルたちがいます!彼女らにμ'sはバトンを渡しました! これからはμ'sではなく、『ラブライブ』を応援してください! 『ラブライブ』で儲けてください! μ'sの私達もそれを望んでいます!」
スムーズにいろんな矢印をラブライブ全体に向けるという、誰にとってもwinwinなものだった。ああ、サンシャイン。
私、感動しました。
ほんとです。
よく人に貶してるんじゃないの?って誤解されてないか心配になります。
褒めてます。
こんなに消費物であることに自覚的なアニメ作品。こんなケリをつけたμ'sのみんなが、いとおしいじゃあないですか。
物語の登場人物が消費コンテンツである自覚を内包する構造。
誰も訪れなくなったコンテンツにおけるキャラクターの存在を問う飛浩隆『グランヴァカンス』とか、読まれる文章であること自体を物語に内包して駆動源とする円城塔の小説とかとか……。
さて、あなたが読まなければこのキャラクターは死んでいるのでしょうか? 生きているのでしょうか?
そんな作品自体がコンテンツであることに自覚的な見方をするムーブメントが、アニメとかラノベのメタ的な引用文化由来とかのせいでしょうか。
日本SFにあると(勝手に)思います。
だから私これ、いま一番日本SFやってるアニメ映画だと思うんですよ。
(あくまで個人の感想です)
■そして円環の高山みなみ
さて、摩天楼の狭間で穂乃花が出会った謎の女性シンガー(cv. 高山みなみ)はなんだったのか。
おおかたの予想通り、あれは未来の穂乃花あるいは穂乃化と同一的なドッペルゲンガー(前世とか来世とかみたいなの)と見るのが素直だ。
そしてこの映画はディック的な構造があるとお話した。
時間と空間は混乱している。
そこを一番体現するのがこの高山みなみだ。そうだね。
そしてあれはほの字がNYでキメた幻覚とかじゃないという当たり前の前提でとらえればいい。
この映画は(未来かはたまた別世界にいる)高山みなみの回想だ。
高山みなみが本作のエモーショナルな物語部分の本体なのだ。
これはスクールアイドルだった穂乃花を想起して
穂乃花に助言し
穂乃花だった自分に勇気をもらう穂乃花の物語なのではなかろうか。
穂乃花で作品に閉じた輪を作ったことで、永遠をつくろうとした。
寿命ある消費コンテンツであることに最後までこだわった作品の中に、ちいさな物語としての救いを作ってあげようとしたんじゃないかと思ってならないのだ。
テレビ版に入れ込んでいなかった私が劇場で最後に感じた、胸の切ない熱さはこういうことだったのではないか。
μ'sは終わりました。
いつかμ'sも忘れられます。
ビルの谷間で、μ'sだった穂乃花は歌を歌っています。
そんなことなんじゃないだろうか。